こんな本を読んできた 3 『浴室』
1 この小説の主人公であり語り手であるぼくは、パリに住む歴史研究家であるが、あるときから家の浴室で暮らすようになる。理由は何も説明されていない。引きこもりかと言えば、そうでもなさそうだ。「そこに居を据えることになろうとは思っても見なかった。浴槽の中で思いをめぐらせながら、快適な数時間を過ごしていたにすぎない」
2 恋人は、浴室から出ないぼくの暮らしを助けてくれる。何だか主人公にはもったいないような女性である。
3 主人公はそのまま終わりまで浴槽に入ったままでいるのかと思っていると、なんと、小説が始まって8ページ目に「翌日ぼくは浴室を出」てしまう。
4 三つの部分に分かれている小説の第一部では家にやってきたポーランド人たちが生きた蛸を相手に台所で奮闘する場面がほとんど唯一の出来事であり、主人公はそれをぼんやり眺めているだけである。
5 第二部になると主人公は家の中から外に出て行く。それも住んでいるパリの街を散歩するなどという簡単なものではなく、イタリアのヴェニスへ向かうのである。理由は書かれていない。「ぼくは突然、誰にも言わずに出発した」のだ。
6 宿泊したホテルの中に引きこもるではなく、食事をしにきちんと外に出て行く。彼女はパリに戻って来いと電話で説得するが、結局彼女がヴェニスに向かうことになる。
7 ぼくはホテルの部屋でダーツに夢中になる。彼女はぼくといるのに息が詰まりそうになり、ダーツを止めてと言うがぼくは続ける。「彼女はぼくを凝視している。やめてちょうだい、とまた頼んだ。ぼくは彼女に力いっぱい矢を投げつけ、矢は彼女の額に突き刺さった」
8 第三部では彼女がパリへ戻った後、ホテルに滞在しているぼくが、激しい頭痛に悩まされ、病院に行き、そこのドクターと話をするようになり、ドクター夫妻の家に招待され、テニスを誘われる。
9 ぼくは、突然、「パリに戻る決心を」する。
10 自分の部屋に戻り、溜まった郵便物などを処理しながら浴室に入る。次の日、アパルトマンから出なかった。いつからかまた浴室で過ごすようになる。別に「わざとそうした態度をひけらかしていたわけではなかった。ただ、一番気分がいいのが浴室にいるときなのだった」
11 しかし「翌日、ぼくは浴室を出たのだった」という第一部の8ページ目の文章と同じ文章で終わる。つまり物語りは、また初めに戻っていく。終わりのないエンディングである。
12 本文は一つのパラグラフごとに番号がつけられていて、全三部、合計170の断片から出来ている。語り手は自分の心理については何も語ろうとしていない。もちろん自分以外の人間についても内面の描写などは一切ない。無機的な、感情のない文章である。初めの方でダーム・ブランシュ(ヴァニラアイスクリームに熱いチョコレートをかけたデザート)のチョコとアイスの取り合わせが完璧なものであると考える部分がある。「熱いものと冷たいもの、堅固さと流動性、不均衡と厳密さ、正確さ」それはモンドリアンの絵でもあると続ける。幾何学的な線で分割されたさまざまな色彩のモンドリアンの絵をすぐに思い浮かべ、なるほどこの小説自体がモンドリアンの絵的であると納得する。
13 ただし、この小説が完璧なものであるかどうか、それは分からない。表現上の新しい試み以上のものではなかったのではないかという気もする。新しい小説なのか、単なるインチキなのか?
14 熱い感情とは全く無縁のこの小説を植木さんがどう読んだのか、それは分からない。
15 ただ植木さんは毎晩食事をし、酒を飲んで一眠りし、夜中に目覚めて一人で風呂に入るのだということだった。夕べはそのまま寝てしまったのだが、誰も起こしてもくれなかったと話をすることも多かった。入浴中に寝てしまうと、溺死してしまうぞと注意をしたことも何度もあったが、酔ったあと、完全に醒めているかどうかという状態で風呂に入るのが好きだったようだ。
16 浴室 ジャン=フィリップ・トゥーサン 野崎歓訳 集英社 1990年 現在も単行本、また文庫本で入手可能。
[ higashikawa ]
2008年2月27日 水曜日 カテゴリ:UEKINGの本棚
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3月 2nd, 2008 22:22:10
先月、わたしも掲示板に風呂で寝てしまうエピソードを書いた。
ところで「誰も起してくれなかった」の『誰も』って、わたししかいないです。とりあえず弁解しておきますが、熟睡というか酔いつぶれていらっしゃるので声をかけても夢の中で「出るよ・・・」「寝てないよ・・・」で、むりやり風呂から引きずり出すわけにもいかず、自力で目覚めるのが常だったわけです。