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こんな本を読んできた 5 カッコよくあり続けること

 

今回取り上げる本は『GO』。金城一紀の小説である。
主人公で語り手である「僕」の通名は「杉原」、戸籍上の名前は「李」。国籍はついこの間まで北朝鮮だったが、今は韓国。日本で生まれ、日本で育ったいわゆる「在日」である。在日と書いたが、「僕」に言わせれば在日という言葉自体がふざけたものである。つまり、
「お前ら、どうして何の疑問もなく俺のことを《在日》なんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。《在日》って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」(単行本 234ページ)
ってことになるわけだ。
その「僕」がガールフレンドの桜井に自分の国籍について告白(!)するのは、付き合いだしてからしばらく経って、初めて夜を一緒に過ごそうと、ホテルの部屋に入ってからのことである。その話を聞くと彼女は、「・・お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚い」ので、付き合うなと言われて育ってきたので、彼に対する拒絶反応を示してしまう。「僕」は「君は、どういう風に、この人は日本人、この人は韓国人、この人は中国人、て区別するの?」(179ページ)
と、ここら辺は、というより小説全体が、ある意味ステレオタイプな進行なのだ。著者の言いたいことが、あまりに直接的にいて、登場人物たちはその考えを伝えるための人形のように見えてしまう。主人公は中学まで民族学校に通っていたのが、高校からは日本の学校に通学している高校生。先ほどの引用部分でも分かるように、民族意識についてもよく考えているし、父親からボクシングの手ほどきを受けていたおかげで喧嘩も強いし、映画もよく見ているし、本ももちろんよく読んでいる。しかもある意味ストイックときている。こんな高校生はまずはその存在自体ありえないようなもので、主人公にしてからが作者の思想を体現しているだけの作り物の人物で現実感がない。彼女にしてもその他の登場人物についても同じことが言える。
と、ここでこの小説の批判をしても仕方がないし、そんなことは作者自身が一番よく分かっていることだろう。
「僕」とガールフレンドの桜井(最後までファーストネームは明かされない)がお互いに色々な本やCDを薦めあうところがある。
二人は「カッコ良かったか、悪かったか、という二つの基準だけを設け、一つ一つより分けていった」のである。「桜井は僕が薦める大抵のものをカッコいいと言ってくれた。ブルース・スプリングスティーン、ルー・リード、ジミ・ヘンドリックス、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ジョン・レノン、エリック・クラプトン、マディー・ウォーターズ、バディ・ガイ・・・でも、ニール・ヤングだけは桜井の趣味に合わなかった。理由を訊いた。「だって、歌が下手なんだもん」(115ページ)
お前本当に高校生なのか、と突っ込みを入れたくなるし、次に彼女の方が彼に薦めてくれたものが列記されるが、マイルスやセシル・テーラー、エラ・フィッツジェラルドなどを薦める彼女が、ディランやレノンを知らなかったという設定(逆も同じ)は、あまりにも変だと思うのだが、そこはまあ目をつぶって、「カッコいいか悪いか」という分類の仕方、というかカッコいいということに植木さんも随分こだわっていたなあと、この部分を読んで思い出した。こだわる、という言い方もどうかと思うし、こだわるという言葉の持つ意味こそカッコ悪いわけだが、今は単純な意味で使っておく。
もちろん音楽や美術などの個々の作品についてではなく、もちろんそういうこともあったに違いないが、それよりも、それこそ「臭い」言い方で全然カッコ良くないのだが、「生き方」について。
もちろん見た目だって大事である。人間は中身だ、という言葉にも一理あるが、外見も大事である。
外も中もカッコよくあれ!
と、いうことを植木さんは恐らく生徒たちに教えていたのだなあ、と『GO』を読みながら、本とはあまり関係ないことを考えてしまったのだった。
悪口のようなことを書いたが、この小説、サクサクと読めるし、コリアン・ジャパニーズのことなど全く関心のない日本の高校生などにはお薦めの本だ。

GO 金城一紀 講談社 2000年。

"こんな本を読んできた 5 カッコよくあり続けること"に一件のコメントがあります

  1. コメント from M.:

    難しくない文章で、ストレートな感じの小説ですね。桜井家族はどこかにいたとしても僕には出会わなそうな人たちでしたが、杉原のような高校生、そして家族は、今ではなく、以前にどこかにいたのかもしれないとちょっと思えます。だからと言って、もちろん自分の身近にはいませんでしたが…。植木先生は確かにカッコよさに何かの基準を持っていたように思います。会話の中で「ぜんぜん格好良くないよな。」とか、「そういうの格好悪いんだよ。」などと言う言葉もよく聞きました。格好良くありたいと思っていたようですね。外見も発言も。自然に格好良かったのかについては疑問も残っているのですが。でも、その無理矢理なところがかえって植木さんらしいところでした。

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