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こんな本を読んできた 6 ピアニシモ

 今回は辻仁成の『ピアニシモ』。

 ゆるい組み方の150ページほどの本で、まあ少し長い短編小説と言って良い長さの作品だからすぐに読み終えることができるだろうと読み始めたが、すぐに文章に引っかかってしまい、読むスピードブレーキがかかってしまった。文章の中の形容句、あるいは副詞句の多さ、そしてはっきり言えばその青臭さに辟易してしまって止まってしまったのだ。

 その始まりの部分引用してみようか。

 「ぎらぎらした空気が、もう何ヶ月も蒸発することのない腐りかけた日陰の水たまりのように、長く古い廊下の先まで充満していた。校庭を望む古い磨りガラスの間を、午前中の弱々しい光が、蜘蛛の巣のようにリノリウムの床にふりそそいでいる。沈黙静寂空気狭間を僕らは一歩一歩踏みしめて進んだ。反射する光の粒子が、足元でゆっくりと弧を描きながら踊っている。校庭を走る生徒たちの騒ぐ声や、音楽教室から届くリコーダの響きが、古いアルバム封印された邂逅のごとく脳裏のだぶついた過去をくすぐる。(3ページ)」

 何々のように、何々のごとく、というくどいくらいの表現陳腐であり、くどい。そんなことが気になってなかなか読み進められない。こんな、あえて言えば下手文章で書かれた小説植木さんは苦もなく読んでいたのだろうか。

 とにかく先へ進んでいこう。

 語り手であり主人でもある「僕」は中学で、冒頭部分は「僕」が転校生で、新しい学校に初めて行った日のことであることが次第に分かってくる。「僕たち」と書いてあるもう一人登場人物は、「僕」にしか見えないいわば分身である。孤独少年がもう一人自分を作り出して想像会話を交わしたり、また少年を端から眺めて批判したり同調したり扇動したりしているわけである。それは読んでいくうちにすぐに分かってくることで、わざわざ語り手というか作者が次のように読者説明する必要のないことだ。

転校を繰り返すたびになじめず、自分の殻の中に閉じこもっていった自分。ヒカルという存在を作り出し、誰にも本心を見せなかった自分。小さな亀裂の中に、矛盾や怒りや憎悪拒否を全て封じ込め、ひたすらに覆い隠してきた、はりぼての青春130ページ)」。

 これではナレータ状況主人気持ちを説明して話が進んでいくNHKの朝のテレビ小説と同じである。読者をなめている、というか興ざめである。

 と、まあ小説を読み始めてすぐに否定気持ちが起きてきたので、どうしても最後までその気持ちを払拭できないままの読書となった。

 主人(たち)は、自分では特別行動も起さず、両親を憎み、学校ではいじめられているのだが、日常風景の中で彼(ら)なりのヒーローを求めている。ヒーローというのは例えば機械切符に鋏を入れていく駅員であり、またホームに向かってくる電車に飛び込み自殺をする人間であるのだ。

 分身であるヒカルが求めているのは「人々や、建物や、言葉や、生活や、習慣や、愛や、孤独裏側に潜む生のエネルギだった。見つけ出しては、唇を尖んがらかして、高い声を張り上げる。彼の興奮興味が僕には分かるような気がした。彼の独創性と自由エネルギが大好きだった。自分にないものがヒカルの中にはほとんど存在したし、僕がやれたらいいな、してみたいな、ということを全て彼がやってのけてくれたのだ(30ページ)」

 ヒーローは外に求めていただけだったのだが、あるとき「僕」はある店の前の坂道に置かれた、見も知らぬ女性の赤ん坊が乗った乳母ストッパを外して、下の国道に向けてそれが落ちていくのを楽しむようなことまでしてしまう。そういう主人にヒカルは「おい、やるね、やる時は(131ページ)」と言って誉めてやるのである。果たしてそんなことがヒロイックと呼ばれる行為なのだろうか。

 そして孤独のあまり伝言ダイアルで知り合った女の子と傷をなめあうような会話を続けたあげく、彼女に会おうと言い出し、彼女に呆れられる。彼女伝言ダイアルでの会話関係バーチャルなものであってリアルではないのだ。「どうしてそんなことがわからないの? 皆、悲劇主人になりたかっただけでしょうが。やっぱりバカよ、あんたなんか(149ページ)」と言われてしまう。

 それをヒカルにからかわれ、もっと大きなことをやってみようよと囁かれるに及んで、ヒカルの存在を疎ましく思い、ついには自分の頭からヒカルの存在を消そうとするところで小説は終わる。

 「ヒカル、ヒカル、ヒカル。そうだ、あいつはもう死んだんだ。もう二度と僕の前に現れることはないだろう。僕はあいつなしで強くならなくっちゃいけない。これからは、何があってもあいつを呼び出すことはできない。自分一人で、成長していかなくてはいけないのだ(158ページ)」

 二十前の若い人間の抱える孤独感、それは分からないではない。この小説で描かれている若者の姿は特別珍しいものでもないし、それなりに読者共感を得ることができるだろう。だが、それを伝える手段として小説という形を選んだのだとしたら、作者文章稚拙で、生硬で、ステレオタイプである。そして何よりも書かれていることのほとんどがどこかで読んだような視感に溢れた読書だった。

 というのはぼくのあまりにも否定に過ぎる読後感であり、もちろん、20年ほど前にまさに現代のさまざまな事象頻繁に起こる少年犯罪など)を予言した素晴らしい作品であると肯定に見ることもできるだろう。それはさまざまであると思うが、小説映画と違って文章を読んでいくものであるという点で、この作品には辛い点をつけざるを得ない。

 ついでながら2007年に著者はこの作品と同じ主人をモデルに『ピアニシモ・ピアニシモ』という続編?)を書いているらしい。興味のある方はそちらも読んで、感想など書いてください。

 

ピアニシモ  辻仁成 集英社 1990

"こんな本を読んできた 6 ピアニシモ"に2 件のコメントがあります

  1. コメント from ayumi:

    ”辻仁成”は若い頃ロックバンドのヴォーカルで、その後中山美穂と結婚して、AMラジオ深夜番組のパーソナリーティーもやっていた事があります。

    そんなネタは知っているが、作品は読んだ事がない。作家というかタレント的なイメージが強い。

    Wikipediaで調べてみたら、この作品は30歳の時にデビュー作として書かれているので、抜粋された文はやはりかなり青臭いと思う。
    でも、10代が読むとキュンとするところがあるのではないでしょうか。

    さて、この作家が50歳近くになって書いた作品「ピアニシモ・ピアニシモ」、覗き見趣味的に興味を持ったので読んでみようと思う。昨日、図書館にオンラインで予約リクエストを送ったので、読んだら感想書き込みます。

  2. コメント from ayumi:

    辻仁成処女作「ピアニシモ」は一時話題にはなりましたが、ウエキはジャケ買いだったのではないでしょうか。
    レコードも本も顔の趣味にピンと来ると、内容も期待するものです。新人の場合はなおさらで、きっといい奴なんだろうなんて贔屓目で読んでしまいますね。

    ホックニーの作品を使った表紙のデザインはなかなか素敵です。
    前作から18年後に書かれた「ピアニシモピアニシモ」も、同じデザイナーでしょう。
    そのホックニーの作品を凝視していると、なんだかこのドラマそのものを表しているような気がしてくる。
    繊細さの中に秘められた暴力的な線、最もシンプルな白と黒は光と影(トオルとヒカル)、インパクトの強い赤(他者としての個体シラト)がストーリーを想像させます。

    確かに、ご批判の通り読みにくかった。3分の1まで読み進む間に、山田悠介と重松清が1冊ずつ入ってしまいました。
    でも、半分を過ぎるころやっとペースに乗り、主人公トオルの同級生のシラトのキャラクターに愛着が沸いてきて、癖っぽい修飾表現にも慣れてきた。
    謎の殺人鬼が潜む校内、殺された少女の彷徨える魂、学校の地下にある死後の世界、後半は冒険ファンタジーに展開。生と死を往復して、初めて感じた愛が勇気と希望になることを知るトオル。

    「いるだけの人」は今もそこらじゅうにいる。
    そして、妄想は悪意の世界へも紙一重で滑り込んでしまうんだな。
    中学生の頃の気持ちに返って読むといい。

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