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こんな本を読んできた 7 信頼のできない語り手

 小説と、植木さんの仕事であった彫刻のどちらも完成された姿がわれわれの前にあって、いつでも好きなときにそれらを鑑賞し楽しむことができる。
 彫刻ならば、今、目の前にある作品の形は、作家がこう作ろうと思って作った結果としてのものだから、鑑賞する人間が作家の意図と違う形を見ているということは(多分)ないのではないか。もちろん鑑賞する人間によって作品から受ける感動の質は違っているだろうけれど、抽象彫刻でない限り見える形が違うということはありえない。そういう意味では幸福な芸術であると言える(というのは言い過ぎか)。
小説だって、読む人によってその内容が変わることはなく、テキストは誰の目にも同じ文章として目の前にあるのだが、小説の厄介なところは、そこに書かれている事柄をそのまま信用して良いのかどうかというところである。語られていることが果たしてどこまで信頼できるのだろうか、という問題がある。
『悪童日記』の文章はそういうテキストである。
 アゴタ・クリストフというそれまで全く名前も知らなかったハンガリー生まれの女性作家が母国語でないフランス語で書いた小説である。翻訳が出た当時(1991年)日本でも評判になり、もちろんそのときに読んだ。とにかく妙な小説なのである。
 固有名詞というものが全く省かれているので、登場人物の名前はもちろん、場所も時代背景も全く説明されていない。戦争時代の話である。都会から田舎の祖母の家に疎開した双子の少年が「大きなノート」(これが原題)に書き付けた日記というのが小説の本文になっている。どの部分を少年Aが書き、どこがBのものなのかは分からない。もしかしたら双子ではなく少年は一人かもしれない。
 とにかく戦争により異常な世界である。しかも彼らが預けられた祖母というのがとんでもない人物で(とこれは彼らの文章から判断するだけで実際は分からない)、彼女との戦い、また出会う人々に対する彼らの行動。それはまさに『悪童』といって良いようなものであるが、それはそうしなければ自分たちがサバイバルできないのであるし、そういう描写を読んでも不快感を覚えることはない。
 彼らがこの日記を書くときのルールを説明した部分があるので引用してみよう。
 「作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。/例えば「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「おばあちゃんは‘魔女’と呼ばれている」と書くことは許されている。/「〈小さな町〉は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら〈小さな町〉は、ぼくらの眼に美しく映り、それでいて他の誰かの眼には醜く映るのかもしれないから。/同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。だからぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。/ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミのみが好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「お母さんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがる美味しさを「好き」といっているのに対し、後者の方では、「好き」は、ひとつの感情を指している。/感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。(36-37ページ)
 というルールに従ってさまざまなことが「報告」されているわけだ。
 この作品のあと『ふたりの証拠』、『第三の嘘』と続編が続き、案の定読者であるわれわれに前作との多くの矛盾点が示され、それが一応の解決を見ることになるが、この作品はこの第一作のみで十分楽しめる小説であると思う。
 余計な話だが『悪童日記』という邦題は訳しすぎではないか。原題通り『大判のノート』でよかったのではないか。もちろんそれでは売れなかったかもしれないが。

悪童日記 アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳
1991 早川書房、ハヤカワepi文庫

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