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僕はナゼ「茅高を悪くした」のか? -2-

駒﨑亮太

(このコーナーは、茅高教員だった頃の言動の背景につながることを述べているので、僕の青春時代そのものを書くわけではありません。そういう話に興味がある方は「こんないいおっさん」にtelして、オールアライブに「よいにいこう」です)

 

 

[人生は無常だ]

幼稚な少年だった僕ですが、人並(?)に14、5才頃から「人はなぜ死ぬのか」「なぜ生まれ、なんのために生きるのか」が不安でしょうがなくなり始めていました。例えば次のような歌詞が心に深く刻まれるのです。

中学では

~緋色のサラファン縫いながら、やさしく母さん申します。バラ色染めたその頬も、やがては色が褪せてゆく。その日がいつか来た時も変わらぬ心で生きましょう(赤いサラファン)~

~Gone from the earth to the better land I know(Old Black Joe)~

高校では、古典で

~つひにゆく道とはかねて聞きしかど、きのふけふとは思はざりしを(在原業平)~

~ねがわくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ(西行法師)~

死ぬのは恐い、死んだら全て無なのか。どうしたら少しでも恐くなくなるのか。月を観ても、何万光年もかけて届いている星のまばたきを想っても、人生の無常を感じていました。

そしてとりあえずの結論は、「思い残すところなく死を受けいれられるよう、今、ここでの生命を生ききる」「ふり返って納得、満足できる人生を送り、言訳をしないで逝く」というありふれたものです。後に観て共鳴を覚えた黒澤映画中の「かえりみて悔いのない人生」というものです。(原節子主演「わが青春に悔なし」や志村喬主演「生きる」等)

 

 

[良識派若者だったのが少し恥しい]

ただの良識派(常識派)で二番手(二軍)だった湘南高校時代は中途半端で、余り好きでないのです。高校でもやはり幼稚で甘っちょろい人間でした。父親不在の長男だったせいもありますが、まともな読書をしなかったせいもあるでしょう。簡単に言えば、理想もさして高くなく、視野も広くなく、思索も深くない、ただ公平と公正には敏感なヒューマニスト・素朴な平和主義者といったところでしょうか。

その中庸さが受けたのか、マジメ(・・・)と思われたのか、今度は学級委員などによく選ばれるようになりました。だけど理論派というより直観的でありアイディアを思いつくタイプでした。だから生徒会で議長とか副会長とかに推されると、戸惑ったり固辞したりしたものです。

一つエピソードを紹介しましょう。60年安保闘争の真最中に高1でしたので、僕のアイディアで体育祭の仮装行列へのクラスの出し物に、当時の岸信介首相やアイゼンハウアー大統領の大きなハリコを造って練り歩いたのです。しかし、同じクラスで僕が一目も二目も置いていた社研(社会科学研究部)のI【彼は後に駒場(東大)で、頭に傷を負って包帯をして、セクトのビラを配っていたのですが若くして亡くなりました】等と、しっかり議論していたら、ただ漫然と仲良くしよう的に行進するのではなく、最後にハリコを蹴とばしたり踏みつけたりするデモンストレーションを考え出していたかも知れません。

その辺が良識派の限界だったのでしょう。まあそれで、半端な良識派だったあの頃の自分は、あまり好きではないのですね、今。

半端な良識派はまた、人を見るに、人柄人物より、どこの卒業かどこの生徒かで見る悪癖に染まっていました。

当時教会学校に行っていて、色々な高校の生徒と交流があったのですが、県立C高K高Y高、私立K学院M学院Y学院の男子達に対しては優越意識を持ち、K女子学院S女子学院よりF女子学院の女の子の方がそれだけで素敵なように思え、当然(?!)彼女達には他校の男子より湘南の僕の方がもてるだろう、と何ともバカバカしい妄想をもっていましたが、現実は当然(!)そんなことは決してなかったのです。何しろ没個性的で主張がない、どころか、自分自身の好みが、食べ物、花、色、季節、女の子等についてハッキリしないような状態でしたし、受験に役立たないような、文字や芸術にはとんと疎かったのですから、そりゃあ、ふられっ放しです。

そんな状態を抜け出すには、高く想い(理想)深く思い(思索)広い視野がひらけてくるようになってからです。

’08年7月

<続きは来月号で>

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