僕はナゼ「茅高を悪くした」のか? -4-
駒崎 亮太
思っているだけで何もしないのはダメだ
言ったことはやる、できないことは言わない
‘67年、退社後に清水谷公園でのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合、小田実達が呼びかけ)の集会やデモにちょくちょく行っていました。アメリカが沖縄などの基地を利用してベトナム侵略を強めていましたので、心を痛めているだけでなく、反戦行動をしなければいけないと思ったのです。日本が戦争に加担しているのに、それに対し黙っていることは、ベトナムの人々が殺されることを認め、許すことになる。それはかなわない、という気持ちが、若者を始め多くの日本人の胸中にあったのです。
平和を実現する(目的)ために行動する(手段)時、手段が目的と矛盾するのはイヤだと僕は思っていました。その点、ギター等を演奏しながら歌い歩く列があったり、どこにも入るグループがない人の列があったり、歩道の見学者に「デモに入ろう」と呼びかけたり、「ヤンキーゴーホーム」とではなく「ジョイン アス」と呼びかけるベ平連のスタイルが好きでした。警備の警官に花をあげようという提案があったら、言い出した人を否定しない、言い出した人がやり、他の人に強制しない、というゆるやかなしかし責任ある個人主義・民主主義を追求する新しい市民の誕生でした。
そして’68年学士入学して、籍は経済学部。しかし教職単位を揃えるために聴講するのは教育学部と文学部。しかし東大斗争(斗っていなかった僕は気がひけるのですが、紛争とは言いたくないので、斗争と書かせてもらいます)で、受講していた教室はバリケード封鎖で、次々と休講となり、途中からレポート提出がふえていきます。心情的理念的には「大学解体」「安保粉砕」「沖縄奪還」は分かっていましたが、今は教員免許をとって高校の教員となって「世直し」のために授業するんだという目標の下に、斗争に対しては禁欲的になり、結果、’69年1月18・19日の解放講堂攻防を横目で見ながら、教員になった暁には「この思いは教室で晴らすのだ」と唇をかみしめたのです。
大学は既に卒業しているので修得(いや中退)でよかったのですが、単位修得=免許状交付が7月にズレこみ、その年の就職はあきらめていたら、「免許状は後でもいいから」という太っ腹の校長に、淡路島で拾われたのです。ところがそこで、実に大きなショックを受けたのです。
高2の世界史の授業中、いつも、小説か何か読んでいる女性がいたので、どうして?と間ぬけな問いかけをしました。当然、「授業がつまらない」と言われました。それに対して僕は「学習指導要領の制約があって・・・・」などと言い訳をしたのです。すると彼女は「大学斗争に背を向けて逃げて来たような人に期待したのがまちがいだった」と書いてきました。ウ〜ン、これがその後の原点となります。
[ Flower ]
2008年10月4日 土曜日 カテゴリ:e-VOICE茅高, お知らせ
コメント: 0
トラックバック
Related articles
- 駒さんの『僕はナゼ 最終回』 (12月 1st, 2009)
- 駒さんの『僕はナゼ 12』資料編 (9月 16th, 2009)
- 駒さんの『僕はナゼ 11』資料編 (9月 16th, 2009)
- 駒さんの『僕はナゼ 11』 (9月 16th, 2009)
- 茅ヶ崎高校舞台の映画「海の上の君は、いつも笑顔。」 (4月 25th, 2009)
コメント投稿欄