駒さんの『僕はナゼ 11』資料編
※1
考える → どうする(一案) … 家庭クラブとは?
☆“たかが50円位だから、おとなしくしていよう”
(出る杭は打たれるし、長いものには巻かれろ、ダ)
→ but この雑な考え方が最も危険、これこそが三無主義を生んできたもの!
これこそが生きがいを見失なわせるもの
小さな事に誠実・真剣にぶつからなくて、どうして大きなことに誠実・真剣にぶつかれるか!決して、そう言ってはいけない。
☆これは、 not 金の問題 but 自由(意志)の問題ナノダ
クラブの目的も分らないのに行動(参加)するような軽率なことはできない
が分ったら、その時参加するかどうか決めるワケダ
例の“女らしさ”がからんでいないか?
☆担任or親しい先生に実情、自分達の考えを聞いてもらう。
☆よその学校のことを調べる。(友達に手紙で問い合わせたりして)
☆顧問に聞きに行く、納得するまでよく聞く。
“文部省…”と言われたら、チャンとそれを見せてもらう
借りて皆で調べ、検討するのもよい。
☆女子だけ(・・)(そもそもこれが問題ナノダ)を集めて、説明会をもつなどということが言われたら、ぜひ男子の参加を認めるよう申し込む(それでなければ集まらない、ぐらいの決心で…非暴力抵抗)これは女子だけの問題ではない。この世に女と男がいて、互いに非常に関係が深いのだから、女子の問題が女子だけの問題で終るはずがない
→そう思っているのは非常に危険だ。
(女子がより良くなることは、何よりも男子にとって喜ばしい!)
☆納得できない場合、家庭クラブについてのアンケートをとってもよい。目的、活動etc
☆最後は家庭クラブに自由参加のための署名運動とか会費不払い運動をする。
☆煽動とは何か。
煽動か、指導か、指導か規制か、自主性を大切に、自由こそ規律、よくよく自分達で考えねばならない。
※2
質問状
君が代を歌う意義は何か?
①形式ではなく内容を!
式は確かに形式だが、だからと言って形式的にムード作りの意味で、浅く表面的にだけとらえずに、内容を深く(根本的に)捕え直すべきではないでしょうか。…歌うなら、その意味を考えて、心をこめて真実に歌わなければ意味がない。しかし、それはできるでしょうか?
②通念でなく信念を。
社会的通念に安易に追従するのでなく、教育的信念を持って、主体的に、誠実に考えたい。その意味では生徒が何を云おうが確信を持って対処すべきであろう。(但し、信念も対話の中で変えられるものですが。)信念がないところには、初めは社会に歓迎されるように見えても、結局は信頼を失うのではないでしょうか?我々は信念を持って社会をリードすべきではないでしょうか?
③大勢(たいせい)だからではなく真理を!
大勢(多数)がいつも正しいのではなく、むしろ安易な方向に流れる時はまちがうことも多い。その場合、たとえ少数でも大勢を正しい方向に変えてゆくのも、真理を追究すべき教育者の役目ではないでしょうか?
1つのYESが多くのYESを生みだす。
1つのNOが多くのNOを生みだす。
④感情的にも、理性的にも!
君が代(国歌ではない)は、主観的、感情的にも、人々(特に戦前、戦中派)には恐怖と嫌悪の拒絶反応を起させるのではないでしょうか?
それだけではなく、戦後4半世紀の日本社会を総体的にとらえた時、それは、明らかに国民の支持する憲法・教育基本法に逆らうものとして復活してきていることは、客観的・科学的な歴史認識として国民の常識ではないでしょうか?
国民に対し、直接責任のある公務員として、一政党の政策に順応することは中立的ではないでしょう。もしろ、憲法にこそ従うべきで、その空洞化された内容の実質を回復する方向に積極的に進むべきではないでしょうか?
⑤道義的に!
人間的には、我々は無条件・無媒介的に君が代を【愛すべき日本国の誇り】として持ち出すことはできない。日本の隣邦(アジア諸国)に対する、かつての残虐行為(戦争)を考える時、我々は後ろめたい思いを抱かずにはおれない。一体、アジア諸国民はこの天皇讃歌に接する時、どのような気持ちになるだろうか。彼らは我々を赦してくれるだろうか?
彼らに対する謝罪も償いも殆どしていないばかりか、再び、エコノミック・アニマルとしての進出が、彼らを脅やかしている現状で、道義的責任から云っても、まだこれを堂々と表に出す資格は、我々にはないのではないでしょうか?なさけなく、屈辱的ではあるが、我々は世界に誇りうる国歌を持っていない。例えば、ラ・マルセイエーズのような…
⑥非難ではなく協力を!
・ある戦後派の懸念
「一部の戦前・戦中派は【被害者としての一般国民】の意識として、
弱いものしかもっていないのではないだろうか。」
・もう一人の批判
「まして、同じアジア隣邦の人々に対する【加害者としての日本人】の
意識など、殆ど見られない。
だが、今、過去の傷口を攻撃し、責任追及することよりも、同じ日本人として、共に責任を担いつつ、未来に向かって日本が再び戦争を起さないよう、連帯・協力してゆくべきではないでしょうか?
☆ 以上、お読みになられましたならば、主体をかけた誠実な個人的見解をお寄せ下さい。
[7人連名のサイン] ‘71,1,30
※3
[受験体制をどう考えるか?]
日本史で受験する者は、専らそれに役立つだけの授業を望むかも知れない。
そうでない者は、楽(らく)して(授業聞かなくても⇒授業なくても)良い成績がもらえる授業を望むかも知れない。
だけど、余りに近視眼的に目の前のことしか見ようとしないのでは、ゆくゆく非常に困るのではないだろうか?現に多くの大学生達が、その生き方に悩み逆っている…その時はその時だ、などとは言わないように。
受験競((戦))争を無視せずに、しかも、それにふりまわされないで、やるべきことはきちっとやる、真に意義あることをやる道はないものだろうか?
[ためになる押しつけはないか]
僕自身の、読まされなかった(残念な)経験、後になって読んだ(遅すぎた)経験から言って、高校生の時にどうしても読んで、考えて欲しい本がある時、それを半強制的にでも読ませようとすると、君達は“押しつけ”だと言うだろう。だけど、ちょっと考えて欲しい。何でもかんでも“押しつけ”というのはダメなのだろうか[自分のためになる押しつけ]というものはないだろうか。次のことをひとつ考えて欲しい。-確かに言えることかどうか?…
①[自分のことは自分が最もよく知っている。自分に必要なことは自分で分る]
②[自分のやるべきこと、やった方がいいと思うことは、十分、自主的に、進んでやれる]
自分の気の向くまま、好きなことだけやっていて後悔することはないだろうか?もちろん、教師の押しつけが“ためになる押しつけ”であるかどうかは、その教師と生徒との信頼関係がなければ、何とも言えないことだろう -あの教師の言うことだから、まあ信用していいだろう、まあためになるのだろう、だから押しつけに感じるが、押しつけられねば一生読まないかも知れない課題図書を読んでみようか -実は、君達皆がそういう気持になって、課題図書を読んで欲しい。君達の幸福、社会の正義、世界の真の平和(反戦…なぜ平和でなく反戦という?)のために…感想文は、読んだ証拠ということもあるけれど、それだけでなく君達の感じ方、考え方を、よく知って、僕自身が、考え、反省し、授業や、或いは、その他で君達と接する時、生かすため、是非、是非読みたい、できたらとっておきたい。
[ ayumi ]
2009年9月16日 水曜日 カテゴリ:e-VOICE茅高
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