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駒さんの『僕はナゼ 12』

 

   僕はナゼ「茅高を悪くした」と言われるようになるのか 12

 

                                駒崎 亮太

 

 着任最初の70年は、答辞を2つ作成して全校配布したぐらいでしたが、71年は教員の体罰事件とセクハラ発言事件に際し、徹底して生徒の側に立ったことで、僕の「悪名」は高くなり始めます。そして72年、いよいよ「茅高を悪くした」と言われるようになる要因が全てつまった1年でした。

 半可通な人たちは、大学に入った後の若者たちが遊ぶのは、入試という目的がなくなったからだと言います。若者もなめられたものです。すくなくとも、60年末の大学生達はそうではなかったのです。我慢、忍耐、克己を重ねて入試を突破し、これからは、下らない受験勉強ではない、自分のための、自分を創る、人生を考えるための勉強をするのだ、できるのだと、希望に胸をふくらませた途端、日大では、収容(!?)し切れない学生数を入学させ教室に入れないという営利主義。東大ではあのどうしようもない、高校を焼き直したような講義が待っていたという状態。そういう欺瞞にたいする落胆と怒りが、東大、日大の学園闘争の背景にあったのは間違いないでしょう。「安保-粉砕」「沖縄-奪還」とベトナム反戦と並んで、迫りくる管理自由社会に対する不安と抵抗が、多くの日本人、とりわけ、理想と正義に敏感な若者たちの心に渦巻いたのは当然でした。

 その波が茅高には、72年に本格的に押し寄せてきました。学校という管理体制、教育という管理作用に対する拒絶と批判が、ベトナム反戦、沖縄「返還」、反差別反公害の思いとともに噴き出しました。新左翼系、旧左翼系、新宗教系、旧宗教系、朝鮮総連シンパ等がゴタマゼの分進合撃でした。僕にとってはとりわけ、(分かった限りでは)2人の在日の生徒(その内のF君は2年後に自死)の民族差別の状況が非常に重かったのです。その後も茅高では民族差別に苦しむ生徒たちとの出会いが多く、例えば暴走族のリーダー等もやっていた彼らとのつきあいもまた、「茅高を悪くした」と言われるようになる一因です。さて72年の在日の2人も含め、誰がリーダーとも言えぬ20数人が3年のクラスのあちこちに点在していました。理系の2クラスの日本史と文系の6クラス全ての政経を受け持って、自由討論も盛んにやったためもあるでしょうが、もはや「リョウタ」と可愛げな呼称ではなく、「コマ」と呼び捨てにできる主体的な生徒達自身の呼びかけの中で、前代未聞、空前絶後の反戦文化祭が実現します。反戦喫茶、反戦映画「歩く兵隊」上映、反戦沖縄版画展、反公害水俣展。もちろん文化祭の前も最中も後も、「2組」(「第二組合」即ち、高教組に入っている側からは労使協調的御用組合と蔑んだ組合があった)の組合員やそれに近い生徒指導部の年配層の「妨害」的指導をはねかえした生徒達は本当に立派でした。図書館側面に立て看も出したし、文化祭前日は会場を守るために、「お泊り」も敢行したし、よくやりました。特に、文化祭だけのためでなく、在日の女性Oさん(日本名)を中心に結成されたMEG(Modern Ethics Group=現代倫理研究会)というサークルは、その後も4,5年学校批判、教育批判の拠点となっていきます。そして73年の卒業式はボイコット組も沢山出た中で、3年有志が自然発生(?)的に「君が代」の最中に足踏みを始め、遂にはそれが会場中に轟き渡り、翌年からは音楽教員が「あんなことでは伴奏ができない」(口実というより本音か?)と言って中止になったのです。さて僕の方は、77年まで他に成り手がいないのに、いくら自分がやると希望してもクラス担任と生徒指導部になることは、校長やそのとりまきによって拒否され続けます。それどころか、次に述べるように、外部からの圧力にさらされ続けるわけです。その流れの中から「茅ヶ崎高校をよくする会」が生まれてきます。以下に当時の資料を紹介します。

 

資料:e-VOICE茅高に掲載しています。

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