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駒さんの『僕はナゼ 最終回』

僕はナゼ「茅高を悪くした」と言われるようになったのか 最終回   駒崎亮太

一砦の上から石を投げられなかったけど(から)

(前回までの話をまとめながら)

電車の中で中高生が受験勉強をしていたり、定期テストや入試について数人で話をしていたりするのを見聞きすると、悲壮感に似た嘆きと不安にかられます・・・日本は(?)これでいいのか・・・学生時代、受験経験を経た人の中には「大人になって役に立つこともある」、「若い時の苦労は貴重だ」などと言う人もいます。

それは恐らくその手の勉強を上手にほどほどに「いい加減に」やることのできた、そういう知恵のあった人の言うことでしょう。

 しかし適当にやる術を知らずに素直に単純に全力で、必死に受験戦争を戦わされた(受験体制によって)者の悲哀、喪失感はそんなものではないのです。大して努力しなくても「できる」特別な秀才でもない限り、絶えず強迫された感じで、しゃにむに憶えて覚えて詰め込むしか能が無かった者は詩も文学も音楽も絵画も五感で味わうことなく、ひたすら暗記に努めることで、感性と人間性の貧しい面白味のない人格となります。受験戦争と言う戦争で心に深い傷を負った戦士は、戦後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ります。

 中高大(3+3+4)の10年間の奪われた人生(最も輝かしかるべき青春という人生)

に対する悔い、寂しさはどうやっても埋めようがない。その悲惨な喪失感は自分自身の自覚や主体性のなさのせいだと、自分の未熟さを自虐的に責めたりしましたが、68,69年の東大闘争は僕の感じ方が僕独りだけのものではなかったことを明らかにしてくれました。例えば次のような文章に共鳴するのです。

以下、島泰三著「安田講堂 1968-1969」より

 当時の教育問題こそは、医療問題と並んで東大闘争の根っこにあるもっとも大きな問題だった。この国を見捨ててしまおうと当時の青年が思うほどの絶望を与えたのは、この国の独特の教育体制だった。

 その第一は大学の教育課程の貧困である。これを一言で片付ける言葉は、「ゴミ」である。教養課程にも良心をもつ教師たちがいることを知っていて、なお私はそれが「ゴミ」だと断じる。同じことを感じた人がいる。青色発光ダイオードを発明した中村修二である。

 「しかし、大学へ入ると二年間の教養課程があり、そこで再び大嫌いな文化系科目を履修しなければなりません。私はそれまでの数年間、いったいなにを勉強してきたのか、大きな疑問を感じました。『大学に入れば好きなことを思う存分できる』と言われ、必死に勉強してきてこの始末。『だまされた』と感じた私は、ついにプツンと『キレ』てしまい、一種の変人になってしまったのです。(中略)失われた時間の長さを考えたとき、私のなかに日本の大学入試制度への怒りが改めて沸き上がってきます」(中村、2004)

≪青空が見えた瞬間≫

日大闘争と東大闘争に牽引されて全国の大学や高校で起こった青年たちの叛乱は、突然現れ、そして消えてしまった泡のようなものだったのだろうか?そうではない。あれは日本文化にかけられた呪いが一瞬破れて、青空が見えた瞬間だった。青年たちは、自分たちにかけられた呪いにきづいたのだった。

 日本の子どもたちは、当時は小学校にあがった瞬間から、今では有名私立幼稚園への『お受験』から、その成長過程のすべての段階で受験戦争にさらされる。一九六八年が意味を持つのは、東大生の場合はその受験戦争の勝者でありながら、日大生の場合はその受験戦争の「おちこばれ」として、しかし同じようにこの受験戦争の意味に目が覚めた瞬間だったからである。受験戦争というこの人間的な感性の削り落し競走が、ただ無意味でただ過酷なだけの洗脳の過程であることに、日本の青年たちは、この瞬間に気がついたのだった。

 日本社会では規格化された規範が個人の感覚と業績に優先している。そのうえに、アメリカ帝国文化が武力に裏打ちされた一切の価値の源泉として覆いかぶさっている。受験戦争はもっとも過酷なやり方で個々人の心を殺していく、日本社会が開発したもっとも強力な洗脳システムだった。この洗脳課程が生み出した結果が、大河内総長であり、加藤総長代行だった。

 だが、この青年たちの覚醒が、彼ら自身があまりにも未熟だったために、また対象としたものが日本社会とその文化全体にかかわるものだったために、未消化なままに終わった。大学当局の背後から政府がその暴力装置である警察機動隊をひっさげて青年の叛乱の圧殺に乗り出してきたとき、生身の青年たちはその攻撃に耐えるすべはなかった。圧倒的な暴力がむこうがわにはあり、戦うべき相手は内側の日本文化そのものにあり、そのうえ世界に覆いかぶさる文化価値の源泉は別のところにいた。

 この大弾圧のあと、青年たちはふたたび旧来の日本文化の呪縛のなかにからめとられることになる。また、その後の政府や教育機関、医療機関のあらゆる努力は、この呪いをもう一度日本文化に覆いかぶせることにそそがれ、あの一九六八・六九年の覚醒の瞬間がなかったことにすることに成功した。

 それでも消せずに残ったのが、安田講堂の上空を舞う警察のヘリコプターから流される催涙液と大講堂の上に立つ火炎ビンを持った青年たちを狙い撃つ警官隊のガス銃の列の映像である。

以上、「安田講堂 1968-1969」

 行動的にはともかく精神的には闘争の理念を負って(観念左翼、全共斗シンパ)受験体制に対する恨み憎しみを抱えて教員になったのですから、反体制(反受験体制)は、ハッキリしていました。後にかつての中高生時代の僕を知る「恩師」数人が、校長や教育委員会の一員として「あのまじめな優等生の駒崎がどうしたんだ?」と心配気に首を傾げられたようですが、僕に言わせれば、あの「まじめな優等生(にさせられた)駒崎」だったからこそタタリ神(もののけ姫)になったのです。

 「青春を返せ」と吠え「人生を返せ」と牙をむいたのです。生徒達にも我が子達にも、決して受験体制にからめとられることのないよう、反体制を通しました。生徒には青春(人生)を奪われるな、という気持ちで授業をし、それに対する彼らの応えに援けられて、僕も青春(人生)を奪い返していった過程が「茅高を悪くした」という評判を呼ぶようになったのです。僕は敢えて「『悪くした』のではない」とは言いますまい。体制とは、本来の憲法体制ではなく、安保体制である時代だから、反体制を志向し、反管理体制を揚げ、学校を学校たらしめず(反学校権力)、教育を教育たらしめず(反教育)教員であり続けることは抗い続けることだと、教員らしくなく生きようとした僕は、まさに「茅高を悪くした」のです。

 その反体制の姿勢への生徒の支持が減っていった頃、僕が30歳を越えた後、美術教員植木孝二が現れたのです。まさに僕自身の失われた10年を背負って、10年後輩の彼は、みずみずしく荒々しい想像力と創造力をたずさえて僕の前に登場したのです。僕の失われた青春への悔恨の念をわかっていただければ彼の姿がいかに眩しくあり、うらやましいものであったかは、想像に難しくないでしょう。

 そう彼は僕の奪われた青春そのものだったのです。

(完)

"駒さんの『僕はナゼ 最終回』"に4 件のコメントがあります

  1. コメント from 水産講習所:

    受験勉強というものは実にクダラナイ
    暗記勝負で学問的背景が何も無い
    そもそも勉強という言葉自体が無意味であり
    自己学習こそが全て
    学校に行っても実は何の意味も無い
    学ぶ場は至る所にあり見付ける能力の欠落した人種が学校に行く
    私も止むを得ず学校には行ったが時間の無駄
    教科書も無駄、検定も無駄
    先生には悪いが教員は要らない
    図書館さえあればよい
    自学自習
    ラテン語で書かれたテキストでない限り自分で読むべし
    学習は義務ではなく権利である
    当たり前の事だ
    教育の名を借りた洗脳は止めてもらいたい
    思想信教の自由は憲法の要請だ
    体制順応派の炭酸同化作用に取り込まれるのは嫌だ

  2. コメント from まもる:

    サイトの中で読むには僕には長過ぎでした。ですから、かいつまんで読みました。それでも、駒さんて、あの駒さんだと確信出来たし、先生の授業が他の先生の授業と全く違っていた理由も解って嬉しかったです。
    「上見て暮らすな、下見て暮らせ。」
    「無知の知」
    この二つの言葉は今でも僕の心に残っています。
    そして「先ず知る事が大切。その為には知らない事を認めなさい。」と他人に諭す事もしばしばです。
    駒さんの授業は僕の人生の中にしっかりと根付いています。年号やら、誰と誰がどうなったとか、試験に出る様な覚えなければならなかった事は大概忘れていますが、もっと大切な「生きる為のヒントになる言葉」は駒さんの授業から学び取っていました。かのアインシュタインが教育について語った「学校で学んだ事を一切忘れてしまった時に残っているもの。それこそが教育だ。」という言葉を思い出します。駒さんの授業は確かに生きています。駒さんが茅高を悪くしたと言われていたことも知りませんでした。何か良く無い方向に物事が進むと、反論出来ない者を悪者にしてしまうのは、人間の性なのか?

  3. コメント from 無天道士:

    無天道士である。俗名は吉川義之と言う。
    生徒としても、同僚としても駒さんを観察する機会をもった数少ない人間です。駒さんはよく記憶してるだろうけど。
    もう年数がたってるものにコメントしてもしょうがないけど、たまに見る人もいるだろうから書きます。

    駒さん、、あんた変わらんねえ。
    うだうだ書いてるだけで、要領を得ない。
    これじゃあ、なんだか自慢話だよ。

    要するに、生徒に合わせず、小難しいことを言いすぎただけの話。
    「授業を受けない権利がある」つうたって、ほかの勉強するだけならいいけど、言葉尻をとらえて中庭で遊ぶやつだっている。そうならないように話し合いと交流で対応したり、魅力ある(とやらの)授業内容で教室に居させる教師は、2割もいないだろう。あとは給料10倍ぐらい出すか、武田鉄也でも呼んでくるかしかない。普通の教師は叱ったりするしかないんだ。
    それをやらなければ、学校が乱れるのはあったり前!何の不思議があるんだ??

    ただ、それに対する対応にも大きな問題があったと思う。サボるやつ対策で欠席の多い奴を赤点にするのは大いに結構だが、年度の途中でやられたらたまらん。1学期にいっぱいサボったやつは取り返しがつかない「そんならはじめっから言えよ」と荒れるのは当然。

    「担任で10人も留年させられたら、俺なら教師やめちゃうよ」と赴任したての俺がつぶやいたら、斜め向こうでその担任が聞いてたのは、笑い話のようで本当の話。何も言い返さなかったあの担任は偉いと思う。
    とどめを刺したのは、むしろこの対応が年度途中であったことだろう。留年した連中も当然面白くない、荒れるに決まってる。留年しなかった生徒も反発する。
    そしてさらに、学区制度の問題で、他学区の問題生徒が集中したことも輪をかけた。

    この二つを書かないのは、自己弁護みたいでイヤなんでしょうかね。

    なんにしても、いろんな立場から観察した人間は、以上のように総括しております。

    最後に一言言いたい。
    教員は小役人です。小役人で給料もらってる以上は、反体制とかやりたいようにやりたいなら、私のように辞めてからにしてください。

  4. コメント from 無天道士:

    補足、
    >それに対する対応

    は職員会議で決まったことです。
    私は、その翌年赴任しました。
    読んでる人が誤解するといけないので。

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